2012年2月26日日曜日

エンジン

何かを作る。
作った悦びがグゥィーンと僕のエンジンを回す、それで更に作る。で、またうれしい。ニヤニヤしながらエンジンが回り続ける。
この状態が作動している時はたまらない。
でも、上手く進まない時も多い。夏の高温、冬の低温時、梅雨。コンクリートがなかなか打てず、作業が停滞してくる。
どうやってこの停滞を回避しエンジンを回すか、蟻鱒鳶ル現場の最重要課題である。アレコレ試してみたけど、未だ妙案無し。
現場にドンヨリした感じが漂う。
僕も沈む。
そういう時いつも誰かに怒られる「最近、怠けてるんじゃないか」と。
更に僕は沈む。
でも、こういう時期は素直にちゃんと悩むが一番だろう。
あ、でももう春だな。

今日はマイアミ&マリさん。丸山さん&小林さんが現場に来てくれた。
知らない女性が温かい烏龍茶をくれた。

2012年2月25日土曜日

批判

批判される事自体は、有難い。
もちろん気持ちはざわつく。ズレた批判は悔しい。でもその批判のいくつかは正しい。
そこには僕の解決出来てない矛盾がある。
矛盾は背負って進む。
そんな半端で、更に蟻鱒鳶ルの中に、僕の真実が無く、インチキなだけだとしたら、蟻鱒鳶ルはただの残骸となる。
作る道標は、自分の気持ちだ。
本当に望んでるのかを問い続ける。
寝惚けた自己ギマンが無いか、丁寧にチェックしながら進む。

2012年2月24日金曜日

長いことミクシーという閉ざされだSNSの中に更に許可制の「蟻鱒鳶ル現場報告」という閉鎖的なコミュニティを作って、思いを綴っていた。
文章に自信がなく、どうしても暗い悩みが多かったのでそういうコッソリした状況がちょうど良かったのだ。
でもそろそろ練習は終わりで、オープンなところでやるべきだと考え、このブログを初めることにした。
ブログを見てくれる人を増やすには、ツイッターと連動させるべし。という友人のアドバイスを受けてそれも初めた。
それまでとは(公)感がまるで違う。短くて当たり障りのない文章が多いけど僕にとっては、なかなかの時間を要する作業となっている。
だんだんである。
こういう事を通して、だんだん自分の立ち位置が見えてきて、目指すべき方向もはっきりしてきた。
少しずつ言葉にもなってきた。
少しずつわかってきたんだ。
なぜ石山修武さんや藤森照信さんか゛応援してくれたのか、やっと少しわかる。
僕は彼らの夢や問題意識の一部を受け継いでいるんだ。
今日の昼頃は、汗ばむ陽気だった。長かった冬もそろそろ終わる。

2012年2月22日水曜日

蟻鱒鳶ル

ずっと大笑いで能天気に生きてきた。建築家になるぜ!といつも鼻息が荒かった。
だけど二十代終わりに、同世代で既に活躍をしていた何人もの建築家たち(西沢立衛、塚本由晴、、、)に出会い、愕然とした。
建築家とはこれほど真摯で情熱的な人種なのかと。
俺なんかじゃとてもたちうち出来ないと落ち込んだ。
それまで信じていた自信はハリボテで、自分には何も無いのだと知った。
唯一の拠り所だった高山建築学校の倉田先生も亡くなられた。
本当はもう建築から逃げるしかなかったのだ。
なのに、小さな土地を買ってしまっている。
希望も無く、未練がましく建築を考えていた。
そんな情けない僕の考えに耳を傾け、応援してくれたのが建築家の石山修武さんだった。
でも、僕の何をほめてくれているのかさえ解らず石山さんの元を離れた。

「僕は自信がなくショボい」ここがスタート地点だ。自信をつけるには自分が信じたデザインを、自分が考えたやり方でやり抜くしかない。
自らを信じる、だ。
蟻鱒鳶ルの完成はまだまだだけど、ここまでやれている事は、本当にうれしいし、へにょへにょだった僕に少しだけど強い自信も与えてくれている。

2012年2月13日月曜日

キケイジ

少し前、テレビニュースを見ていた。「放射能の影響で奇形児が多く産まれている」
日頃、他人の事を「かわいそう」などとちっとも考えない僕でも(奇形児)という言葉は重い。心がざわついた。
テレビは「心臓の中隔欠損が最も多い」と続けた。
はじめて知る。僕は奇形児だったのだ。
ネットで少し調べる「チェルノブイリ ハート」というその頃話題になっていたドキュメンタリー映画は、ズバリそういう映画だった。
心臓病は怖い。
いつも死と共にある。
僕は心房中隔欠損でいくつも穴のあいた虚弱児だった。寝る前に、死のイメージにおおわれて泣きながら母の布団にもぐりこむのは日常だった。
母には、ずっとずっと心配だけかけている。

建築が完成したら、きっと母の長かった心配トンネルが終わる。

そう信じる。

手術のすんだ僕の心臓は快調で「医者が穴を塞いで、毛をはやした」などと友人たちに言われる始末。

原発はやめよう。

2012年2月6日月曜日

帰郷

母は今二つの病気を抱えていて、かなり弱っている。一人の暮らしで、近くに住む彼女の姉妹達らの協力でどうにかこうにか成り立っているが、かなり辛そうだ。
大工仕事、掃除、家具の移動。死んだじいちゃんの畑を耕やす(耕運機をマスターする、畝がなかなか上手く作れた)。などをやりながら数日過ごす。
たまにの帰郷はいつもこんな感じだ。
病気で弱って、ため息の多い母に追加の借金を申し出た。
馬鹿息子度MAXだ。
母はそもそも僕のやっている事に理解など無い。「自分で作るとば止めて、後は業者にお願いせんね。意味んわからん!」といつも言われる。
二百万円借りる。これで一年作れる、頑張ろう。
恥ずかしい話だ。