2014年8月24日日曜日

高山建築学校2014

倉田先生が亡くなられた夏、皆で話しあった結論は「高山建築学校は学生主体で続ける。岡と吉江さんがフォローをする」というモノだった。
何とも半端で無責任な結論だったと思うけど、それが力も自信も無い僕らの精一杯の選択だった。
(本当は、高山を潰さないように動きまくった僕がトップをやると自ら宣言すべきだったんだけど僕の信頼はペラペラに薄く、それはあり得なかった、し、僕自身にその自信はまったく、まったく無かった)
最初の頃は、そんなあやふやな高山建築学校をなんとなく僕が仕切ってしまうことが多かった。
何年かはそれでもどうにかうまく回っていたんだけど、その状態に学生達は徐々に反発しだし「岡さんは建物の管理と作業の指導してくれればよく、運営や会計に手を出す必要無し、朝礼などでも発言しないでくれ」と言われてしまうまでに関係はズタズタになってしまった。
同じ頃、OBと倉田家の人達に「岡やめろ!」と言われ続けていていた事もピークに達してしまっていた。
悔しくってしょうがなかったけど、両方に「岡やめます」と言い放った。
どうなるのかわからなかったけど、もうどうしようもなかった。
その発言で、スッと去る人、意見を変える人がいた、、、。

、、、、、、ウンヌンカンヌンあり、、
、、、、、、(飛ばして)

そして、13年間、学生主体という形でどうにかこうにか続いてきたけど、とうとう学生主体というカタチは終わってしまい、同時に倉田先生の頃から長く続いていた法政の学生による高山建築学校事務局も終わってしまった。
法政の先輩後輩諸々の関係者が参加者となりどうにか赤字にならない程度の人数を確保していたショボショボの状態だった。

今年、2014年、僕は、はじめて(正式な責任者)に指名された。
運営組織すら無いまったくもって不安MAXガタガタな状態でのリスタート。
参加者募集のチラシに岡さん!ステートメント!!宣言文を書いてくれ!!
と、学生達に言われ、やっとやっとの文章を書いた。
まだユックリ目に進めたかったけど、お金の無い僕にとって「赤字」は怖過ぎた。
川ちゃんのチラシ、中村さんのホームページ、皆の口コミで、どうにか参加者は集まってくれた。

食事をする場所すら無いような状態であった、、、いろんな大学から集まってくれた、、、、社会人も多かった、、、、心底うれしかった。
うち数人は、岡啓輔という名を知ってて来てくれたという。
こういうこと書くと恥ずかしいけど
「いつか、僕が成長し、僕の名で、参加者が集まるようにならなきゃ、高山は潰れるしかない、僕が成長しなければ、、、」とずっと心に叩き込んでやってきた。
その為に、蟻鱒鳶ルを頑張るしかないと思いやってきた。
法政の流れが終わった年、ギリギリ間に合った。
もっと、頑張んなんきゃな!

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