2014年3月7日金曜日

羽田でマチボウケなう

石山修武さんが、鈴木隆行さんについて書いてる文章を見つけた。
鈴木さんは、蟻鱒鳶ルがやっとヨチヨチ歩き出した頃、時々見に来てくれていつも全力で褒めてくれた。何度も酒を呑んで、僕の泣き言をニコニコ聞いててくれた。
 

元ダムダン鈴木隆行君のこと 大図解九龍城

076 元ダムダン鈴木隆行君のこと
 鈴木隆行君が亡くなった。九月六日夕方、病院で独人死んだと言う。何年か前、深夜二時頃だったか淡路瓦師山田脩二と二人、酔って世田谷村に、あれは明らかに乱入だったが、訪ねてくれて会ったのが最後になった。
 鈴木君はダムダン空間工作所では私のスタッフだった。幾つもの建築をつくる手助けをしてくれた。伊豆松崎町の伊豆の長八美術館も彼の手助けによった。誠実な設計家だった。
 最後に会った時の印象は、真夜中の歓迎されざる客であった事もあり、どうしたんだ鈴木、しっかりしろよ、と言いたい位に良くなかった。ヒゲだらけの顔ばかりでなく、体中から疲れと投げやりになっている感じがにじみ出ていた。
 私が良く知っていた鈴木君との余りの違いに仰天した。彼はキチンとした野心も持つ男だった。香港の九龍城調査を熱心にやり遂げ、立派な本にまとめたりもした。そういう事にのめり込むパッションがあった。しかし自身の内にあるカオスをそのまま容認してしまうところがあった。だから、それぞれの仕事にものめり込んだ。彼をオペレーションするのにも、それ故エネルギーが必要だった。一言で言えば、情熱と馬力が彼のカオスをそのままにしていた。一緒に乱入してきた山田脩二にもそのようなところがあるが、山田には不思議な矜持があって、決して崩れる事がない。自分のライフスタイルへの淡々とした自信がある。だから山田は湯布院に居をかまえ、淡路島に移った。決して都市では暮らそうとしなかった。都市は山田にとって泥酔する場所でしかなかった。
 鈴木君は晩年、東京で呑み屋を開店して、そこのオヤジになっていたと聞く。私は一度も訪ねなかった。彼は都市の中心で生き続け、そのカオスの中に死んだ。
 九龍城の巨大な迷路に身をひたし過ぎた結末なのだろうか。

 鈴木隆行君は都市の迷宮の闇に独人、死んだが、私は彼の本当の姿を知っていた。
 純で直情径行、そこぬけに人を信頼して、明るく笑っていた鈴木君を知っていた。伊豆西海岸の午後の光のようにキラキラと陽気な彼を知っていた。
 人間の一生は一言でまとめられる程に単純ではない。しかし、独人で死んでしまった彼の記憶は、やっぱりキラキラとした人間を信頼しようとする笑っている姿にまとめられるのだ。
 スペイン・バルセロナで彼と遭遇した事があった。彼はきっとアントニオ・ガウディの建築と、カタロニアのキラリとした青空を満喫して、幸せだったろう。本当の自分に会えている充足の中にいただろう。
 いまだに、力不足でチャンスに恵まれぬままだが、私だってキラキラと底抜けに明るい建築、ガウディだって抜けていってしまうような奴を本当は作りたい。その情熱は連綿としてある。
 鈴木隆行君が生き続けてくれていれば、その建築を共にできたのにと、今はかなわぬ哀しさの中にいる。人間は生きなければならない。迷宮に踏み迷ったままに死んではならない。死んでしまった鈴木君に言う言葉ではないけれど、敢えて言う。
 もう少し生きていてくれれば、共に凄い、底抜けに明るく光る建築を作る事ができたのに、と無念でもある。
 彼が手伝ってくれた建築は皆、明るく、希望に満ちて輝いていた。それが彼の本体だった。そんな建築が残る限り、鈴木君を忘れる事はないだろう。
 光の中に彼は生きる。サヨナラ。
 石山修武


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