2013年7月30日火曜日

ゲスト参加者としてちゃんと読まねば!

「BOOKYOTO(ぶっきょーと)」文・舞阿弥(吉野正哲)

「BOOKYOTO」では『作品としての会議』の制作スタジオで、会議を共同制作します。
現在、たくさんの物事が私によって廃棄され取り壊され忘れられ使い捨てられています。
その廃棄される物事の黄色いゴミ袋の中には、時間や健康、それに遊び心、やる気、さら
には夢や希望までが、ひしめき合っています。原子力発電所は、この様な私の価値観と生
活態度が生み出したものです。
 私は価値観と生活態度を変えなければいけません。これがずっと課題のまま先送りにされて今日にいたります。
 
 そこで、いかにして価値観と生活態度を変えるか。を座布団に座って会議したいと思います。若干、座布団が足りなくなる事が予想されますので、御持参いただけると助かります。
 ゲストにセルフビルダー(自力建築家)の岡啓輔さんにお越し頂きます。岡さんは現在東京都港区三田聖坂に「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」というセルフビルドの自邸ビルを建設中で今年で8年目になります。
蟻鱒鳶ル保存会 arimasutonbi.blogspot.com/
 私は岡さんに誘われて「高山建築学校」という夏の間の10日間のセルフビルド建築のサマースクールに参加しました。自分は「建築」というジャンルとは一生、縁の無い人間だと思っていたのですが、当たり前な事に、現代の社会で生きている限り、建築というものと無関係な人間などおらず、ただ無関心なだけだった、という事に気付かされ、建築は音楽や美術と同じ様な表現行為の一種であり、法律や土地や経済や地域と言った、社会の様々な側面と向き合っていかないと成し遂げられない、成熟した人格を要する表現行為なんだと知りました。

 私が高山建築学校に参加した事で得た、大きな収穫の一つは社会はありとあらゆる職種と多種多様な文化のコラボレーションによって成り立っているんだ、と気づけた事です。

高山建築学校の敷地内ではそれぞれの参加者が自分の作りたい物を作っている様子が一望出来て、本来の社会はこんな風に繋がりあっているものなんだと視覚的にも認識出来るのです。それは理想の社会が生き物になったみたいな光景です。誰かの作業する姿に私も元気付けられて、私の作業する姿もきっと誰かを元気づける。 
 
 セルフビルドでは設計した人自身が建設作業の全ての工程を担うので、通常の社会では、別々の仕事になっていることが、本来は一繋がりの仕事なんだと言う事が当たり前に認識出来ます。普通機械がやってくれるコンクリートを練るところまでを設計者がやります。大学卒の建築家が設計したものを高卒の現場作業員が建設すると言った学歴社会のヒエラルキーはありません。
 本当は一繋がりの作業であるはずの物作りの工程が、分業によって、冷たく分け隔てられていない社会ではきっと人間同士はもっとお互い一つの仕事をしている仲間同士なんだとちゃんと認識出来るのだと思います。

 岡さんはここで毎年沢山の事を勉強して若い学生からもエネルギーを貰って、東京に持って帰ってそのエネルギーを元気な建築にして街の人たちに見てもらってます。社会がもっと高山建築学校の様に、お互いの仕事や文化的な活動のコラボレーションで出来上がっていると実感出来る様になったら良いな、という願いが、そこには込められている様に思えます。
 
 その様な事に気付いた私ですが、建築家ではありません。収入はゴミ収集のアルバイトで得ています。ゴミ収集の仕事は建築とは違って形の残らないものではありますが、社会の様々な活動の結果に生み出された物(ゴミ)を扱っているという意味では実に全方位的なコラボレーション業務ですから、建築と同じ様に、ゴミを通じて社会ともっと面白い関わりが持てたり、私達が活き活きと作業する姿が誰かを元気付る事が出来たら良いなと思います。
工場で大量に製品を生産する工程に携わっている作業員と、その工場を動かす電力を発電している発電所の作業員と、その製品のパッケージのデザイナーと、その製品のバーコードを読み取る機械を開発したエンジニア、その製品の消費者、その商品の消費税価格を議論して決めた政治家、その製品のコマーシャルが流れるプロ野球中継での選手達のプレー、その製品がゴミになったとき収集するゴミ収集作業員、は全て同じ一つの仕事をしています。それがなんでこんなにも分け隔てられ見えないままにされてしまっているのでしょうか。一つの画面に社会をまとめて世界の繋がりを認識したいです。曼荼羅みたいに。

ゴミ収集の可能性は、全ての人がゴミを出す事、ゴミは道路脇に出されるので常日頃目に見えている事、あらゆる製品、生産物、老廃物がゴミになること。バラバラだった仕事が遂にゴミ袋の中で一つになれる事。など

「人間、野菜、宇宙の塵など、私たちすべては、目に見えない演奏者が弾く単調で不可思議な旋律の曲にあわせて踊っているにすぎない。」by アルバート・アインシュタイン

 では実際にどの様にしたらゴミ収集、ゴミ作り、ゴミ出し、ゴミ減らしを連携させてクリエイティブな表現行為として連帯する事が出来るでしょうか?私も岡さんと同じ様に高山建築学校で気付いた事を京都の街で何か展開出来るかな?

ここでラスキンと言う19世紀イギリスのヴィクトリア時代を代表する評論家の言葉を引用してみます。

「みなさん、塵には地球と生命と社会のすべての結末が飛沫となってひそんでいるのです、その塵からこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なのですか、何が経済なのですか、何が教育なんですか――。」『塵の倫理』より

この塵をゴミと入れ替えても同じ事が言えると思います。

「みなさん、ゴミには地球と生命と社会のすべての結末が飛沫となってひそんでいるのです、そのゴミからこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なのですか、何が経済なのですか、何が教育なんですか――。」『ゴミの倫理』より

 これは実に本当の事だと思います。沢山の社会問題の答えが黄色いゴミ袋の中にもぎっしり詰まって叫んでいる様に思えます。倫理という言葉の定義は、「持続可能な社会を作るのに必要な価値観の元にすべき良心の様なもの」の事ではないかな?
《倫理=人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。(コトバンクより)》

私がゴミ捨て場に捨てるもの以外にも沢山の種類のゴミがあります。

「廃棄されたものは、人間の目的にとって価値のないもの、使い途のないものである。この世の中には、廃棄されたモノ、廃棄された土地、廃棄された時間、そして廃棄された人生がある」『廃棄の文化誌 ーゴミと資源のあいだ』 ケヴィン・リンチ著

 廃棄された人生とはこわいですね。ただ廃棄された時間というのは確かに私自身に思い当たります。それが積み重なったものが廃棄された人生だとしたらうっかり者は余程の注意をしたいところです。人生に染み付いた価値観が「捨てろ、捨てろ」と囁き、その通りすて続けてしまい価値観の自動操縦は止められません。ゴミ袋には価値観の結末が詰まっているんですね。ただ一つ希望は一度捨てられたものでも再び誰かが拾えるということですね。時間を除いては。
 自分で物を作れずにただ消費するだけで、時間がどんどん過ぎて行くだけだというのは本当はとても頼りない気分で怖くなってしまう状態なんじゃないかと思います。

そこで幸せの国ブータンの場合を調べてみました。

 ブータンは、仏教の深い影響を受けた国である。昔から、ブータンの人々にとって、宗教的な建造物の建築や修復は、純粋に献身的な行為であった。このような行為を献身的に行う感覚は、進行中の作業に自発的に労働力を提供すること、つまり報酬などなくても身体を張って貢献しようという衝動によく示されてい る。ここでは、他の原則は一切働いていない。
1961 年に外国に対して国を開き、社会経済的な開発計画を開始したことで、ブータンの人々の生活には数多くの変化がもたらされた。ブータンとインドを繋ぐ、自動車道路の建設によって、ブータンの建築や使用される素材は大きく変化した。このような変化は、首都ばかりではなく全国の地方都市にはっきりと現れ全土において伝統デザインと伝統 工法は次第に片隅に追いやられている。[1]

 人々の社会的価値観のシステムにも問題が生じてきている。近代化により様々な恩恵 がもたらされる一方で、薬物乱用、非行、家庭崩壊といった社会問題、近代化の影の側面や負の影響が、ブータンの社会文化システムに徐々に忍び寄ってきた。これは現在存在する社会的価値観のシステムを衰退させ、結果として国家の持続可能な開発に対し否定的な影響を与える結果となる可能性もある。このような近代化の否定的な影響に対処するため、環境などすべての存在への敬いの精神を教えるという伝統的価値観を、断固として維持していかなければならないのである。[2]
 
ブータンでは近代化の波によってせっかく培って来た価値観が崩壊し始めています。

きっと日本はそれよりもっと激しく価値観が崩壊してしまってると思われます。

 ではこれから新しく本格的に事業を開始するHAPSの活動拠点、東山の、室町時代中期の価値観はどんなシステムによって成立していたのでしょう?

 室町時代、東山文化では「同朋衆」という存在がアートディレクターの役割を担い文化の発展に貢献していたようです。松岡正剛さんの『武家文化と同朋衆』の書評から引用します。
 「同朋衆が登場してきた背景には、いくつかの明確な条件がある。ごくかんたんにまとめると、次のような背景があった。
 第1には、「座」の社会が用意されていた。(略)これらの座のそれぞれに、寄合(よりあい)と雑談(ぞうだん)をたいせつにする「一座建立」と「一期一会」の心が育まれた。ここではそこに集まった会衆の身分や出身を無視する「一視同仁」というコミュニティ意識も育まれた。
(略)第3に、すぐれた批評、すなわち評価をする者たちが主として連歌師から生まれていった。
(略)実はネット社会のほうでも、いま評価システムをどうつくったらいいかという問題やどうしたら評価者を用意できるかという機能の問題が急浮上しつつある。
多様な価値の乱立を、すぐって適確な評価のしくみに変えるにはいったいどうすればいいかということで、いわばネット型の同朋衆も期待されはじめているということである。
(略)今日の日本に同朋衆が不在しているのは、なぜなのだろうか。「座の文化」が重視されないからなのである。ぼくは確信するのだが、われわれはやはり坐らないと話にならないのではあるまいか。[4]

 「BOOKYOTO」でも、座布団に座って会議するので、もしかすると現代の同朋衆みたいな会議が出来るかもしれません。これまでの評価の対象として取り上げられる物では無かった廃棄された物、今にも取り壊されそうな近代建築、今にも廃棄されそうな人生、今にも変えられそうな憲法、等を評価出来る能力を持った会議が出来たら良いですね。切羽詰まった状況に追い打ちをかけて批判し合う事に時間とエネルギーを無駄に使って互いに価値を傷つけあう事をしないように気をつけたいです。

 会議を生命力溢れる場にする為、「BOOKYOTO」では音楽を導入しようと思います。今回は、私の理想の音響技師である、西川文章さん(3日のみ)と、HAPSスタジオで斜め向かいの音楽室で制作をしておられる京都メディア研究会のアナログメディアアーティスト、毛原大樹さんにコラボレーションして頂ける事になっています。更に二階の理科室から鏡世界社のミニ四駆のコースが会議室内までやってきて会議と同時進行で様々な出来事が交差し演劇的な空間が生まれる予定です。

 「音楽は演劇の一部である。「焦点」とは人がどの面に注目しているかを指す。様々なものがすべて同時に進行するのが演劇だ。私にとって音楽がもっと生き生きし たものになるのは、たとえば聴くことが見ることの妨げにならない場合である。音楽はとても自然に捉えるべきなのだ。技法は要らない。」ジョン・ケージ

■会場に流れる音楽のイメージ

「かつての日本人の音の享受の仕方として際立っていたのが「遠音を楽しむ」ことで、これは自然音、環境音の中に溶け込むようにかすかな奏楽の音色をよしとした世界である。その一方で、三味線のサワリが代表するような「雑音性の豊かな音楽」で「音階にこだわらない音楽」、そして「初めも終わりもない形式」が江戸の音の特徴である。さらに能、文楽、歌舞などは、音と音楽、言葉、身体、演技、舞踏、サーカスが渾然一体となった世界なのである。歌舞伎役者が着物に焚きしめた伽羅や白檀の香り、三味線の音の艶めかしさ、身体のダイナミズム…、香りと音と色の交感する劇場空間の中で人々は五感のすべてを解放され、「個」を忘れて、非日常の世界に酔いしれたのだった。」
『言葉と音楽の境界-現代文学とパフォーマンスの試みから』鈴木正美 より

 会議に音楽を融合させる事で集中力が削がれ逆効果が生まれるのではとの指摘もあり、4日に関しては音楽の導入は保留としています。音楽と会議のライブ模様はビデオ撮影、録音をして編集し前述のZINEと併せて何らかの形で刊行します。(クリエイティブコモンズライセンスを付けてフリーダウンロード出来る様にするとか。)「クリエイティブ・コモンズとは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)を提供している国際的非営利組織とそのプロジェクトの総称です。creativecommons.jp/licenses/ 
NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事ドミニク・チェンさんによると、「ジェネラティビティ」(「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわって行くこと」或は「自己よりも長生きする生命や活動に投資したいという欲望」を意味することば)の概念がフリーカルチャーの根本的な価値を体現していると言います。「それはなぜ、そしてどのように私たちが学習と創造を繰り返し、文化が形成されていくのかという根本的な問いに光を与えてくれる概念だからです」(フリーカルチャーをつくるためのガイドブック・クリエイティブ・コモンズによる創造の循環/著者=ドミニク・チェン)P,248より

■「自己よりも長生きする生命や活動に投資したいという欲望」

 蟻鱒鳶ルは200年以上持つと言われているそうです。岡さんの生き方はまさにこの「ジェネラティビティー」を体現しているように思います。とても頼もしく感じます。
業種を超えたそれぞれの現場で「ジェネラティビティー」が行動に移されて学習と創造が循環して行ったら良いですね。

 その気持を確かめて、高め合える様に、現代社会の生産過程で通常、分け隔てられてる人達が京都市指定の黄色いゴミ袋の中で一堂に会して話し合える様な会議にしていきたいです。

みなさま是非とも奮って御参加下さい!!!    

                          2013・7・28 吉野正哲

文中略
[1]『生きている歴史的建造物の保全:その衝突』 ブータン内務文化省文化局 歴史的建造物保護課エンジニア カルマ・ワンチュク
[2]『有形・無形文化財の保護、保存、有効活用のための政策 』-市民・青少年の参加によって-ブータン生活文化省文化局長 ドルジ・ワンチュク
[3]520夜『武家文化と同朋衆』村井康彦|松岡正剛の千夜千冊


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